最終回幸子は夢中で車を飛ばしあの家を目指した。飛び出してもう何年も帰っていない幸子の悪夢がはじまったあの家。兄の真一と息子の優一が住んでいるあの家。そして悪魔のような母との記憶が今も脳裏に焼きついているあの家。(母は・・・母は生きているのだろうか?)幸子が母の恐怖を思い出しながらも家にたどり着いたのは朝日が昇りはじめ空がピンクに染まり始めた明け方だった。幸子は星野優実の返り血を浴びて全身血まみれであることも忘れ星野優実のバッグから見つけた鍵を使いゆっくりと静かに玄関を開けた。ガチャ寝静まった家に音が響き渡り幸子は緊張した。(とにかく誰にも見つからずにシャワーを浴びなくては・・・)急いで靴を脱ぎ懐かしい廊下を歩いて浴室を目指すと幸子の目の前に突然、人影が現れた。(キャッ幸子は軽い悲鳴をあげた。目の前に飛び出してきたのはあの、母だったのだ。『優実さん、どこに行ってたの。優一をほったらかしにして朝帰りだなんて・・・』少し、いやだいぶ老いた母を目の当たりにして幸子は言葉を失った。『優実さん、どうしたの?血がついてる!!』幸子の母は驚いたように言った。『あ・・・あの・・・その・・実は友達が事故に遭ってそれで、真一さんには連絡してたんですが入院先の病院までついていって・・・それで・・・』幸子は苦し紛れの嘘をついた。『そう、大変だったのね。だったら急いでお風呂に入りなさい。優一は泣きつかれて眠っています』母は疑いもせずにそう優しく言って自分の寝室へと戻って行った。幸子は、自分が星野優実と入れ替わったことに気づかれなかったこと、そして、あの恐ろしかった母が何故かとても優しかったことにほっとして、急いでシャワーを浴びた。身体にこびりついた血と汗と土は洗っても洗ってもなかなか落ちてはくれなかった。幸子は何度も何度も身体を洗った。目を閉じると樹海の光景が鮮明に蘇ってきた。星野優実の最期の絶叫が耳鳴りのように頭の中で響いていた。でも、後悔などしていなかった。幸子は遂に幸せを手に入れたのだ。星野優実という名の幸せを。真一と息子の優一がいればそれだけで幸せなのだ。 しかし、あれほど息子の真一を愛していたあの母が嫁である星野優実に優しく接しているのはいささか不思議な気分だったがきっと母も年老いて以前に比べ穏やかになったに違いない。幸子はそう言い聞かせるようにして浴室から出た。(優一は??優一はどこにいるの?真一は?兄の真一、いいえ、夫の真一はどこ?)幸子はこの家に住んでいた頃に、兄の真一が使っていた部屋へと向かった。ゆっくりと扉を開けるとベッドの中で安らかに眠る真一の顔が見えた。そしてすぐ近くに置いてあったベビーベッドにはお腹を痛めて産んだ息子の優一が眠っていた。幸子は思わず、優一を抱きかかえて涙を流した。『会いたかった・・・会いたかった。私の赤ちゃん、優一・・・優一・・・』しかし、幸子は抱きかかえた優一の顔を見てハッとした。幸子は、まだ赤ん坊の優一がとても冷たい目で自分を見ているようなそんな気がした。もしかしたら優一は気づいているのかもしれない。樹海での出来事を・・・全て見透かされているような気がして幸子は優一をベッドに戻した。(いや、きっと気のせいだ。まさかそんなことがあるはずがない。優一は私の子供だ。産んですぐに離れ離れになっていたからきっと優一も感動の再会に戸惑っているのだろう。そして私は悪魔のような星野優実から優一を助け出した感謝されるべき産みの母なのだ。そう、何も心配することはない。優一はきっと私のことを理解してくれている。)幸子は自分にそう言い聞かせ今度はまだ寝ている真一の顔を覗き込んで胸が熱くなった。真一に抱かれたあの夜からずっとずっと会いたいと想い続けた愛しい人がすぐ近くにいる。やっと自分の物になった。そう思うと幸子は嬉しく嬉しくてしかなかった。(もう一度抱かれたい。もう一度愛されたい。もう一度愛してると言ってもらいたい。もう一度熱く激しく・・・いや、もう一度なんかじゃない。これからは一生ずっと愛されるのだ。星野優実として私は兄の真一に愛され続けていくのだ。)幸子はベッドの中に入り真一の身体に自分の身体を寄せた。『ん?あぁ・・帰ってたの?』目が覚めた真一が優しく幸子に話しかけた。『起こしてしまってごめんなさい』そう言って幸子はもっと真一に身体を寄せた。ずっとこうしたかったずっとこうしたいと願っていた。そう小さい頃、兄はよく私の布団に入ってきて一緒に寝てたのだ。(私たちははじめから結ばれる運命だったのだ。もう何も迷うことも悩むことも苦しむこともなく解き放たれて愛されたい。)幸子は強い想いを胸に自分から真一に抱きつきそして唇にキスをした。きっと真一もキスをし返してくれる。幸子は、そう思っていたがこともあろうか真一は面倒くさそうに幸子の頬に軽くキスをして『もう少し、寝かせてくれ。疲れてるんだ』と言って再び眠ってしまった。(疲れてる?何をそんなに疲れてるというの?疲れてるのは私の方よ。あなたに愛されるために息子を取り戻すために星野優実を葬り去ってくたくたに疲れ果てて帰ってきたのに・・・やっと会えたのに・・・やっと帰ってきたのに私のことを少しくらい愛してくれたっていいじゃない)幸子は絶望した。(何故?何故真一は私を抱いてくれないの?)幸子はそのまま一睡もできなかった。ずっと待って待って待ち焦がれた再会だったにも関わらず真一は眠いと言って幸子を邪険にしたことが悔しくて悔しくて幸子は疲れも忘れ目が冴え渡りただ、布団の中でじっと固まり続けていた。(抱かれたい・・・抱かれたい・・・・)目覚ましが鳴り真一が起きたところを幸子は待っていましたとばかりに押し倒してキスをした。『お願い、抱いて・・・』とうとう観念した真一は幸子を抱いた。『優実、愛してるよ』星野優実と幸子が入れ替わったことなど気づきもせず、真一は耳元で優実の名前を呼び続けた。やっと手に入れた真一の愛。欲しくて欲しくてたまらなった真一の愛。星野優実から奪って手にした真一の愛。嬉しいはずなのに幸子は真一に抱かれながら妙な感情が芽生えはじめていた。(違う・・・真一が愛しているのは私じゃない。星野優実を愛しているんだ!!!私が幸子だと知らない真一は星野優実を愛している。私という人間ではなく星野優実と言う人間を真一は愛しているのだ・・・)幸子の中に葛藤が生まれた。『そろそろ仕事に行くよ』真一がそう言って立ち上がると裸の幸子は後ろから真一にしがみついた。幸子はどうしてももう一度、愛を確かめたかった。真一は星野優実を愛しているのか、それとも目の前にいる自分を愛しているのか幸子は確かめたくなって叫んだ。『行かないで!!行かないで!!もっと愛して!私を愛して!!!』幸子は真一の背中に爪を立てた。『馬鹿言うな。今、会社が大変なのはお前も分かってるだろ?そろそろ行くから優一と母さんを頼む』真一がそう言ってスーツを着ようとしたので幸子はスーツを奪い取った。『いやああああああ行かないで!!!!もっと愛してよ、もっと愛してよ』幸子は今までずっと我慢して生きてきた。言いたいことも言えず苦しみも悲しみも弱音も寂しさも誰にも打ち明けられずに生きてきた。だけど・・だから・・・今度は絶対に欲しかった。愛が欲しかった。幸せが欲しかった。愛に飢えた幸子の心は風船のように膨らみそして、割れた。 『優実、どうしたんだ?いつものおまえらしくないぞ』泣き叫ぶ幸子に向かって真一はそう言ってスーツを奪い取り着替えて部屋から出てってしまった。(優実らしくない??そうよ、私は幸子よ。星野優実のフリをした幸子。何故?何故、あなたは優実を愛しているの?私は顔も声も身体も全部星野優実とそっくりなのに、どして私がいつもと違うなんて言うの?どうして私をもっと愛してくれないの?私とあの女と一体何が違うって言うの?)幸子は混乱していた。『ウワアクァアアアアアアアアアア』幸子が叫びながら泣き出すとベビーベッドで寝ていた優一が泣き出した。オギャアア オギャアアア『あああああ、うるさい!!!泣きやみなさい!!!!』幸子は優一をあやしながら叱った。しかし優一は一向に泣きやまなかった。『どうして、お母さんの言うことが聞けないの!!どうして、私になつかないの!!泣きやみなさい!!!!!』部屋の中で幸子がヒステリックに叫んでいると母が部屋にやってきた。『優実さん、どうしたの?優一が泣いてるじゃない』全裸のまま優一を抱いている幸子の姿に母は驚いた様子で幸子の身体にシーツをかぶせた。『優実さん、ちょっと疲れてるんじゃない?育児ノイローゼかも知れないわね。そうだ、お手伝いさんを雇いましょう。ね?いいでしょ?そうしましょう。お~よしよし、優一。おばあちゃんがだっこしてあげますよ』そう言って母は幸子の代わりに優一を抱いた。その日から真一は仕事で遅くなると言って帰らない日々が続いた。幸子は心配した。真一は気づいてしまったのではないだろうか?今、家の中にいるのは真一が本当に愛して結婚した星野優実ではなく実の妹である神野幸子であることに、いや、それとも他に女が出来たのではないだろうか。そうに違いない。男はそういう生き物なのだ。妻という大切な女がいながら他に女を作っては遊んで仕事だなんて絶対に嘘できっと他に女がいるんだ。幸子は沈みがちになっていた。せっかく幸せになれると思っていたのに待っていた現実は幸せと呼べるには程遠いものだった。そんな幸子を気遣ってか母は以前とはまるで別人のように幸子に優しく接していた。いや、正確には母は真一の嫁である星野優実に優しく接していた。日曜日になると母はベビーシッターに優一を預け幸子を買い物や温泉などに連れ出した。4月の下旬になって母は幸子に『山菜ツアーに行こう』と誘った。そして幸子と母が参加したツアーバスは青木ヶ原樹海近くの森へと向かった。 まさかこんなに早く1ヶ月ぶりに樹海続きをみる
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