第22話それから他の社員が出社してくるまでの2時間程度の時間を私と山村優子は朝の定例会議で使う資料の作成に費やした。昨夜、私は酔っ払ってしまいホテルで少し寝たせいかさほど眠いという感覚はなく多少の疲労感は感じていたがむしろそれは悟と素晴らしい時間を過ごせたという心地のよい疲れだった。不意に何度も悟のことが脳裏をよぎったが私は悟を思い出して愛しさで胸が熱くならないよう仕事に集中した。そうもう心配することなど何もない。悟は結婚を前提に私と付き合いたいと言ってくれたのだ。今の彼女と別れて私のことを選んでくれた悟。それだけで私は、もう怖いものなど何もないと悟との未来に不安なんてこれっぽっちもないと思えていた。『おはよう』しばらくしてユキが出勤してきた。時計をみると9時を過ぎたところだった。『おはよう』いつもは遅刻ギリギリでくるユキが今日はずいぶんと早いなと思いながらも私が振り返り、そう挨拶するとユキが目を真っ赤にしながら泣いているのに気がついた。『どうしたの?ユキ・・大丈夫?』私はユキが通勤途中で痴漢にでもあったのか?それとも身内に不幸があったのか?と心配してユキのそばにかけよった。 するとユキはゆっくりと耳からイヤフォンを外し手に持っていたMDウォークマンの停止ボタンを押しながら『はぁ・・・』とため息をもらした。私は全く状況が理解できず『大丈夫なの?』ともう一度聞くとユキは『あぁ、あたし悲しくて悲しくて・・・』と言いながら大粒の涙を流した。『どうしたのよ、何があったの?』私がそう言うとユキはにっこりと笑って『あたし、会社に来るまでずっと失恋ソングを聴いてきたの』と言った。『失恋ソング?ユキ・・・失恋したの?』私はユキが悟のことを諦めたのかそれとも何の魂胆があるのだろうかと訝しげに聞くと『違うわよ?悟くん命のあたしがそう易々と失恋するわけないでしょ?失恋ソングを聴きながら過去にあたしを通り過ぎていった男達を1人1人思い出していたのよ。だってそうでしょ?今までの恋は悟くんに出会うまでのプロセスに過ぎなかったってことが分かったの。悟くんは出逢うべくして出逢った運命の人だってそう思いながら失恋ソングを聴いてたら嬉しくって嬉しくって嬉し涙が溢れてきたってわけなのよ』とユキは嬉しそうに笑いながら言った。すると山村優子が『バカなこと言ってないで早く仕事して?今、定例会議で使う資料をプリントするから無駄話してるならコピー機まで行って取ってきてくれないかしら?』とユキに命じた。 ユキは朝っぱらから山村優子に命令されたのが悔しかったのか顔を強張らせて『ふんっ』と言ってオフィスの角に設置されているコピー機へと歩いて行った。するとユキの後姿を見ながら山村優子が『ショータイムのはじまりよ』と言った。私は何のことか分からなかったが山村優子はただ気味悪く薄ら笑いをしていた。『きゃああああああ』突然、コピー機の前でユキが悲鳴をあげた。そして山村優子のパソコンからコピー機に送られたはずの資料のコピーを手にしたユキが走りながら『ふざけないでよ』と怒鳴り散らして山村優子を突き飛ばした。『何なのよ、これ!!』ユキは山村優子に向かって言った。『何って会議で使う資料だけど』山村優子は、すっとぼけた顔をしてそう言った。『これのどこが資料なのよ!!』ユキはキンキンと声を張り上げてそう言った。『ちょっと・・・どうしたのよ』私がそう言うとユキは体を震わせながら手に持っていた大量のコピーを私に見せた。ユキが持っていた数十枚の紙には『今日は残念でした。ホテルの目の前まで行ったのに何にもしないなんて。でも、それだけあたしのこと大切にしてくれてるってことだよね?信じていいんだよね?』ユキは見栄を張って悟くんとホテルに行ったなんてみんなに言いふらしていたけど本当はホテルの入り口で断られました。という内容が書かれていた。 すると山村優子が『あんた、悟さんと寝たなんて言ってたけどあれ、全部嘘だったんでしょ?笑っちゃうわよね。全部知ってるのよ?あんたが悟さんに送信したメールの内容だって全部知ってるのよ?本当に恥ずかしくて惨めな女。あははっははははは』とユキを蔑むように言った。私は山村優子が朝の会議で使う資料を作るなどと言って朝早くから職場に来てこんな物を作っていたとは全く気づかなかった。『私、本当に寝たんだから!』この期に及んでまた、悟と寝たと言い張るユキはシュレッダーで山村優子が作った紙をバリバリと破いた。その姿を見て山村優子は『あら、もったいないじゃない。裏側は真っ白なんだからメモ帳代わりに使えたのに』と笑いながら言った。『こんなもの使えるわけないでしょ!』ユキは屈辱に歪んだ顔をして山村優子を睨みつけそう言った。『そんなに怒るってことが悟さんとは寝ていないという何よりの証拠よ。本当にあんたも分かりやすい女ね』と山村優子が言うとユキは『この野郎!!!!と言いながら山村優子につかみかかった。悟にこれっぽっちも相手にされない醜い2人の女の修羅場がはじまるのかと私は割りと他人事のように見ていたのだがそこに『おはよう』と言って悟が入ってきた。悟の声を聞いて瞬時にユキと山村優子は離れ『悟くんおはよう』『悟さんおはようございます』と、先ほどまでとは別人のような1オクターブほど高くて可愛い声で2人は悟に笑顔で挨拶をした。私はユキと山村優子があまりにも滑稽で思わず笑いそうになった。 悟はあれから少し眠る時間があったのだろうか?酔った私を一晩中寝ないで心配してくて悟は疲れていないだろうかと私は悟の体を心配したが悟は私にだけこっそりとアイコンタクトをしてくれた。2人だけの秘密の時間を過ごした悟のまっすぐな目を見れば何を言わんとしているのか私には理解することができた。悟も私のことを好きになりはじめている。今までは一歩通行だった私の片想いが遂に両想いになろうとしているのが悟の目を見れば嬉しいくらい私には実感できた。あぁ、早く2人きりになりたい。今度2人きりで話せるのはいつだろうか?明日?あさって?それとも今夜?昼休み?『ねぇ、幸子。ちょっと来て』私が悟に見とれながら次に2人きりで会う予定を頭の中であれこれシュミレーションしていると山村優子が私を呼んだ。『あっ、うん』私はおぼろげな返事をして山村優子の後を追った。 廊下を歩きながら山村優子は『それにしてもさっきのユキの顔、最高だったわね。まさか私たちが悟さんの彼女からユキが悟さんと寝てないことを聞かされてたなんて夢にも思わなかったでしょうね』と鼻を高くして笑った。それから給湯室の前で山村優子は『悟さんに朝のコーヒーを淹れなきゃね。幸子はコーヒーを作ってて。私は忘れ物をしたから更衣室まで取りに行ってくるわ』と言って更衣室の方へと走っていった。私が給湯室でコーヒーをコーヒーメーカーで作っていると山村優子は何か金色の物体を大事そうに抱えて給湯室へと走ってきた。よく見ると金色の丸い筒のような物体はお歳暮などでもらうような海苔が入っている缶だった。私はあえて気づかぬふりをしようと思ったが山村優子が気づいてほしそうな顔で私を覗き込むので『どうしたの?それ』と、続きをみる
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